最近、物理学に夢中になっています。
物理は、高校の時、赤点を取った科目です。授業が始まると白髪のおじいちゃん先生が黒板にグラフと数式を書き始め、そのまま黒板に向かったまま解説のようなことを話し、いつのまにか授業が終わるという流れで、私は気付いたら寝てしまっていた、ということが何度もありました。おじいちゃん先生の後姿と、ときおり振り向いて生徒に話しかけるという先生の楽しそうな顔の印象が残っています。
なので、
物理というのは、全く分からない、遠く離れた“科目”のままでした。
それが、
今はすごくおもしろく感じています。
なぜかというと、物理学というものが、
人類にとって、根源的な問いにつながっていると
知ったからです。
なぜ、月は形が変わるの?
なぜ、浮かんだままなの?
なぜ、太陽はずっと輝いているの?
いつから輝いているの?
何をエネルギー源にして輝いているの?
なぜ、物は落ちるの?
これって何からできているの?
なぜ、人は死ぬの?
そういった、大自然の中にある素朴な
“なぜ?”…
そこから、自然哲学や神話、神の概念(宗教)が生まれ、数学の概念ができて、測量や記録ができてからは暦が出来たり、さまざまな物が発明されるようになっていきました。
水時計が生まれ、ルーペができ、顕微鏡ができ、車輪や印刷機ができ、さらに時をぐんと進めると、
粒子同士を高速でぶつける加速器ができ、、どんどん物の性質や構成がわかっていきました。
今では、宇宙が誕生して0.0001秒から0.00000000001秒までの間のことが“理論で”説明できるところまで来たらしいです。。
(なんじゃそりゃあー)
こういう、一瞬といえるほんのわずかな時間や、
超超ミクロの世界や、超超マクロの世界を、
数字や記号を使って現していくことができるようになって、多くのことが解明されてきているらしいです。
(ガリレオガリレイは、「自然という書物は、数学という言葉で書かれている。」と言った。)
しかし、
どれくらいのものが解明されているかというと、宇宙の中の5%だけらしいです。5%…。
(そして、、数学の世界では、というより科学の世界では、いわゆる全知全能の存在である神はいない、ということが証明されてしまっているといいます。
このへんについては、その影響も含めて学んでみたい。)
物理とは、ものの理(ことわり)。
受験科目の一部で理系の人たちの学問だと思っていたけれど、
こんな壮大な世界があったなんて。。
世界中の国の多くの人達が、戦争があったり、スパイにつけられたり、また、教育事情もよくなかった中で、研究や実験を重ね、常識を疑い、時に命の危険にあいながらも、成果を受け継いできたからこそ、今のさまざまな恩恵がある。
“巨人の肩に乗って
私たちは暮らしている“
ということが少し感じられました。
物の最小単位をつきつめていくと、
時間と空間の概念が変わらざるを得ないような事実があるという。
いったい私たちはどこへいくのか。
にんげんの好奇心や欲求は、
どこまで、どんなふうに、
広がっていくのだろう。
わたしは、物理の世界をほんの少し覗いてみて、“にんげん”というものを観る視点がまた少し広がった気がしています。
【小話】
微分積分という数学に対しても、驚きがありました。
なんと、ニューロンの万有引力の際に使われたものだった、というか、
万有引力を証明するために、ニューロンが微分積分をつくった、らしいのです。
微分積分て、方程式に数字を入れてとにかくミスなく正確に早く解く“問題のひとつ”だったのが、
1人の人間が、どうしても知りたいことを解明するために“手段として作った”ものだったんだと。
にゅーろーーーん!!
微分は、小さな変化を観ていくこと。
積分は、その変化を足していくこと。
そして、微分積分は日常生活でも使われているということで、株価やお店の売り上げ、人によっては、“人生”に例える人もいるのだとか。
ほんの小さな変化を観ていくことで、全体の流れを知る。
ものの動きを解明するために作った方程式が、今の時代の暮らしにも役に立っているんですね。
…….
なにかを学ぶって、
やっぱり、
すごく楽しい。
無知の知は、
豊かだ。