パスカルはこう言った。
「人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」
と。
パスカルさんはそう言ったけれど、
私は、考えているつもりで、実は何かに浸っているだけのことが多かった。それがいいか悪いかではなく、考えているかどうか、というと、そうでもないような気がするのだ。
考え過ぎていたところもあったし、でもそれは論理的でなかったために、“次”に行かずぐるぐるとしていたことも何度もある。
最近は少しずつ、少しずつ、
“考える”ようになった。
論理的に。
これがとてもいい。
なんだか、雨の後の草ぼーぼーの道を、綺麗に整理して、歩きやすい道にしていく感覚だ。見晴らしが良くなる感じでもある。
そうすると、立ち止まる時間が減って道が歩きやすくなる。
論理的に考えることは、同時に、現実を一旦受け止めるという作業が必ず入る。その作業は、簡単じゃない。でも、ものすごく頼もしい底力になってくれる。
論理的に考えようとするとき、
無意識に《そうだと》信じていることの根深さにも気づく。
「そもそも、それってどうなんだろう」「ほんとにそうかな」「それはどうして?」「何がベストだろう」
問いかけをすること自体、
勇気が必要な時もある。
しずけさも必要だ。
感情の力が大きいことも感じる。
だから、何度もトライだ。
日常では考えないで済むことは多いし、他人を批判することも、逆にすぐに信用することも、両方、たやすい。
あの人が言うことだから正しいとか、信頼できるとか、逆に、うそに決まっているとか、そういうのはないなぁと本当に思う。
誰だってまちがうことはあるし、それは時間が経たないと分からないこもある。そして、考え方は変化する。(ディベートをするとおかしな間違いは減ってくるという…私も修行中だ。)
自分の視野から見える小さな見方であったり勝手なイメージだけでは、
本当には分からないことが多い。
何度も考える。
そのくりかえしだ。
1人1人がちがう意見や考えをもっているという事実を、ここ数ヶ月、改めて理解している。
感情も揺れるし、何も考えたくない時もあるけれど、
軸を自分にもってくると、余計な情報が排除されて、
リラックスして考えやすい。
人間とは、考える葦。
私は少しずつ人間になろうとしている。笑